2013年1月9日水曜日

相対α、1979年2月17日(土)



相対α、1979年2月17日(土) 

 今年は、雨の多い春だった。今日の僕はピーコートを着ている。ピーコートというのは腰だけで寸詰まなのだ。腰から下がスカスカしてかなり寒い。今日は飯田橋に行って来期の大学の受講単位票を提出した。誰とも会わなかった。部室に行っても誰もいなかった。部室にはしっかり南京錠がかかっている。鍵を忘れたので、入るわけにもいかない。当たり前だな。春休みで小雨の降る土曜日の午後に誰が大学に出てくるものか。

 まっすぐ家に帰る気もせず、お茶の水で降りてしまった。古本屋でもあさろうかと。僕は駿河台の坂を下っていた。

 お茶の水は何事もなく、ひっそりしていて、春休みの大学街には古本あさりのおじさんがちらほら傘を差して歩いているだけだ。この坂で70年安保なんてやっていて、石畳を剥がして投石していた十年前が想像できない。トボトボ歩いていたら、明治大学の横に来てしまった。文系の大学の方が理系の大学より大学っぽい、というのはなぜなんだろうか?やっぱり、女の子がいるか、いないかの差なのかもしれない。

 門をくぐって、構内に入っても誰もとがめる人もいないので、ズンズン奥の方に行ってしまう。ここは、いつもなら僕の大学にはあまりいない女子学生が闊歩しているのだろうな、などと思いながら、教室、教室を覗いて歩く。もちろん、誰もいないのだが。

 どこを歩いているかわからなくなった時、廊下がつきて、ロビーに出た。ロビーに面して、第一講堂なんて、両開きの古い木の扉の上に大書してあり、その木の扉はちょっと開いていた。そして、講堂の中から、ピアノが聞こえた。

(へぇー、キース・ジャレットを弾いているひとがいる)

 扉を少し開けて、ソォーと、着ていたピーコートを引っかけないようにすり抜けて、講堂に入った。後ろの扉だったので、演壇まではエンエンと座席が三十列くらい続いていた。

 演壇にはスポットライトが一灯だけついていて、その光の輪の中で、女の子が長い髪をサラサラ揺らしながら、鍵盤をのぞき込むようにして、ケルン・コンサートのパートⅠを弾いていた。やけに脚も手も長い女の子だ。

 僕は邪魔をしないように、一番後ろの列のたまたま下がっていた座席にそっと腰を下ろした。キース本人とまではいかないが、ミスタッチがないのはすごい。ケルン・コンサートは即興で演奏されたので、譜面なんかないのだが、僕が聞く限りそのままだ。

 女の子は、The Köln ConcertのPart Ⅰを弾き終わると、顔を上げ、一番後ろに座っている僕をジッと見た。

「見たわね?」彼女は、演壇からよく通る声で僕に怒鳴った。僕はギクッとして、「ごめん、気付いていたの?」と謝りながら、演壇の方に降りていった。こう離れているとお互い怒鳴り合わなきゃいけない。怒鳴り合っていると喧嘩のようだ。

「ドアが開いて、一瞬明るくなれば気付くわよ」 と彼女がいう。なるほど。講堂の後ろの扉を開ければ外光が入って一瞬光る。それが目に付いたということか。彼女は、前屈みに僕を見下ろす。演壇の上から見下ろされるものだから、心理的に分が悪い。やれやれ。だけど綺麗な女の子だ。目がまったく大きな久保田早紀という感じだ。

「女性はね、注意しなくても、みんな見えるのよ」なのだそうだ。男性は注意しないと何も見えない。女の子って器用だ。
「ふむ、確かにその通り。ゴメン、たまたまキースが聞こえたもんだから・・・」
「あら、知っているの?」
「ちょっと前、高校のとき、FM東京で十一時くらいから岡田真澄の番組でオープニングにかかっていたからね」
「へぇー、あまり、知っている人がいない曲なのよ。ジャズか何かやっているの?」
「いやいや、絵描き・・・いやいや、絵描きって、つまり、美術部」
「美術部で、音楽が好きなんてヘンなの」
「ヘンじゃあないだろ?好きなだけなら。楽器は演奏できないけどね。」
「まあ、いいわ。だけど、覗き見はいけないぞ、キミ」
「たまたまさ」
「男はいいんだろうけど、女は、期待した時にしか、何かを見せないものなのよ」
「ふーん、なるほどね。準備がいるってヤツだな。だけどさ、男はね、偶然とか、たまたまとかが好きなんだけどね。ココをまっすぐ歩け、寄り道するな、っていわれると、寄り道したくなる」
「女はね、出発点から、ゴールまで見渡せないと気が済まない。それで、ゴールで期待通り、花束と祝福の嵐、ってこと」
「男はさ、ゴールで誰も待っていなくて、トボトボ帰ろうとしたら、物陰から、ワッと、現れて、花束差し出されるのが好きなんだ」
「フン、わかりあえそうもないわね、女と男なんて・・・で?」
「で?って?」
「名前ぐらい名乗りたまえ、キミ」
「おお、ゴメン、フランク、っていうんだ」
「フランク・・・キミ、性格が『率直』ということなの?」 率直?率直かな?まあ、どうでもいいけど。「まあね。キミは?」と僕は尋ねた。
「何が?」と彼女が顎をあげて問いかける。
「だから名前・・・キミの名前は?」
「ああ、名前ね。私、エミ、というのよ」
「恵まれる、美しく?」
「違うわよ。フェルメールの絵、美術館の美」
「ああ、『絵美』だね、絵のように美しく、ということ?」
「そうとも言えるわね?」

 彼女とキースの話をした、Jazzの話をちょっとした。それで、彼女が僕に「ねえねえ、キミ、いまひま?」とうれしそうに訊ねる。
「小雨の降っているこんな土曜の午後にキースを聴いていたぐらいだからひまだろうね」 と僕が言うと、
「まわりくどいいいかた。つまり、ひまなのね?」 と。
「ひまだよ」
「私、キミともっと話してもいいわよ、フランク?」という。
一方的、断定的に言うのが癪に触ったが、僕も「・・・ええっと、僕もキミともっと話したい」と率直に言う。
彼女は、「じゃ、ここを閉めるからちょっとまっていてね」と言う。 「それでね、こういう寒い日にはブランディーが一番だと思うの」
「土曜日の午後の4時に?だいたい、今頃お茶の水のどこでブランディーが飲めるというんだい?」
「それはまかせて。じゃ、いきましょうか」絵美は、じゃ、演奏はこれでお仕舞い、と言った。

 絵美はピアノの鍵盤にフェルトの覆いをかぶせ、蓋を閉じた。舞台の後ろに行く。そこには電気の盤があって、彼女はその扉を乱暴に開ける。ブレーカーのスイッチをひとつひとつ丁寧に切っていく。舞台の照明が落ちていく。慣れた手つきだ。だいたい、女の子が電気の分電盤を開いて、ブレーカーのスイッチを切るなんて動作が出来るというのは、信じられなかった。よくわからない女の子だ。

 講堂の鍵を明大の営繕課にてきぱきと返す。僕らは明大の講堂を出て、駿河台の坂を下った。明大前の交差点を日大理工学部の方に曲がった。左手の山の上ホテルのアネックスを通り過ぎて、山の上ホテルの本館の方に向かう。

「まかせておいてよ。ついてらっしゃい」こういわれて、山の上ホテルのバー『ノンノン』まで連れて行かれた。

 たしかに『ノンノン』は開店時間が午後4時からだ。もちろん、4時からバーにいる人間など宿泊客でもいない。バーテンがグラスを磨きながら「いらっしゃいませ」と僕らにいった。

「カウンターでいい?」と絵美がいう。
「カウンターでいいよ」と僕。
「こぢんまりしているでしょ?」
「いいバーだね。」
「そうでしょ?」絵美はいった。「ところで、ねえねえ、キミのこと、フランクって呼んでいい?」
「いいよ」
「私も絵美と呼んで。名字が嫌いなの」
「そりゃあ僕も同じだ。僕らの名字はありきたりだからね」

僕らはカウンターに座り、絵美はマーテルを、僕はメーカーズマークを注文した。

「絵美はどうしてこのバーを知っているの?」と僕は訊いた。
「叔父がね、よく連れてきてくれるのよ。フランクも大学生のくせにホテルのバーに慣れているようね?」
「中華街のホリデー・インでよく飲むんだ。それに銀座のホテルのバーでバイトしているからね」

 僕らは、ジャズや音楽の話をした。それから、大学のこと、専門のことも。彼女は目白の大学の心理学科に通っている。犯罪心理学を専攻したいという。

「十年くらい前にシャロン・テートを殺害した事件があったじゃない?チャールズ・マンソンとその『The Family』が起こした事件なんだけど、知ってる?」
「ああ、ロマン・ポランスキーの奥さんだった女優だよね。猟奇的殺人事件、妊婦殺害、カルト集団、七十年代の産物・・・」
「あの事件を知った後、犯罪心理に興味を持ったの。中学生の時に」
「なるほど。だけど、日本じゃあ、犯罪心理学を専攻しても日本の警察がそういう学者を必要としていないようだね?」
「そう、その方面の専門家が日本には少ないのが実情なのよ。でも、日本はアメリカの二十年遅れを歩んでいるみたいだから、将来、アメリカのようなカルト的で猟奇的な事件が増えてくると思うの」
「僕はそれに関して何ともいえないけれど、でも、心理学というのは面白そうな学問だと思っているんだ」
「フランクの専攻はなに?美術じゃないでしょ?」
「物理学課ということになってる」
「なってる?専攻は物理なんでしょ?」
「まだ、よくわからないんだ。物理学というのは幅の広い学問で、理論物理と実験物理では違う。理論系の物理屋はまるで哲学者のようなんだ。それから、理論物理でも、ミクロの分野を扱う量子力学系の物理学と、マクロの天体の運行や宇宙の成り立ちを扱う宇宙物理学とがある。ミクロとマクロの間は仲が悪い。アインシュタインは、その両者、ミクロとマクロを統合した統一場の理論を作ろうとして失敗したんだ。アインシュタイン、知ってる?」
「相対性理論でしょ?」
「そうそう」
「私、相対性理論って習ってみたいな。面白そうじゃない?」
「絵美っておかしいね。犯罪心理学をやってみたくて、相対性理論も習ってみたいなんて?」
「ねえねえ」とうれしそうに僕の方に乗り出して絵美はいった。「あのね、もしもだけど、フランクがウチの大学のニセ学生で心理学を私と一緒に受講して、私がフランクの大学で相対性理論を受講するのってどうなの?」
「ちょうど、来期の受講に相対性理論は入ってるんだ。うーん、教授に訊いてみてもいいけどね。まあ、訊いてみなくても、必須じゃなくて選択科目だから、一人ぐらい紛れ込んでも教授は気にしないさ。生徒が気にするくらいかな」
「なに?その生徒が気にするって?」
「物理科では女性の生徒は全学年で数人しかしかいないんだ。だから誰が誰だか知っているってこと」と僕はいった。「それにね、キミだからね・・・」
「その『キミ』だからね、ってなに?」
「つまりね、物理科を志望する女性って、かなり変わり者なんだ。ガリガリのガリ勉で身仕舞いを気にしない女性とか、化粧もしない女性とかで・・・数学科や化学科よりも変わり者なんだよね」と僕はいいにくかったのだけれども言い足した。「キミみたいな女の子が物理科に来ると目立つんだ・・・つまりね、キミは、その、かなり綺麗だってことだけどね・・・」といった。
「それ、ほめているの?」と、僕の方に乗り出して、うれしそうに絵美はいった。
「事実を述べているに過ぎないだけ」
「ふ~ん、喜んでいいの?」
「じゅうぶん、喜んでいいんじゃないかな。かなり綺麗だよ、絵美は」
「ありがと。よぉ~し、じゃあ、二人して四月からニセ学生をするのに賛成でいい?」
「いいよ、心理学も面白そうだ」

 ・・・

 ノンノンでは、3時間話し込んでしまった。食事もしなかった。バーでナッツをつまみ、唐揚げを注文したくらいだ。それで、絵美はマーテルを5杯飲んだし、僕もメーカーズマークを6杯飲んでしまった。バーテンさんは、午後4時からバーにあらわれて、食事もしないでブランディーとウィスキーを何杯も飲んでいる学生カップルに呆れたことだろう。しかし、商売柄ポーカーフェイスだ。僕もアルバイトで同じことをしているのでよくわかる。

 普通、初めて会った女の子とはそれほど話がはずむ、ということは僕のばあいにはない。相手のバックグラウンドがまったくわからないからだ。絵美とは、何でも話ができた。僕の知っていることをたいてい彼女も知っていたし、彼女の知っていることを僕もよく知っている。こんなに楽しい会話はまずない。

 大学の女の子は、地方各地から来ているので、どうにも話が合わない。僕の大学に限らず、堀向こうの法政の女の子とかでも同じだ。絵美は、何代もつづいた家の東京っ子で、私立の中高6年間一貫教育の学校だから、僕とバックグラウンドが合うんだろう。横浜の石川町にある女子校の女の子達とは、話が合う。でも、絵美ほどではない。

 80年代は、21世紀と違って、かなり大学生も理屈っぽかった。資本論だってかなりの割合の学生が読んでいたし、毛語録を持っているのがかっこいい、という時代だった。もちろん、60、70年安保世代よりもしらけてはいたが、それでも、みんなかなりの量の本を読み、片手に朝日ジャーナルを抱えている学生が多かった。

 僕は理系だけれど、友人は文系が多かったし、物理科にいかなかったら文学部で、江戸の黄表紙本の研究でもするかなあ、と思っていたぐらいだ。

 絵美と話をすると、ブラッドベリ読んだ?読んだ、読んだ。ホーンブロワーシリーズ知ってる?もちろん!ぜんぶもってる、ヒギンズ好き?大好き!リーアムデブリン、愛しちゃっているんだなあ、なんていう。じゃあ、フランク、ディックフランシス知ってる、もちろんだよ、パーカーは?ユダの山羊よかったよ、庄司薫読んだ?彼も好きだ、ホームズは?何度も!夏目漱石?イエス、鴎外?イエス。。。

「じゃあ、フランク、ユング知ってる?」
「現代思想からユング特集がでたよね?去年。それで、フロイトは読んでいたけど、ユングも読んでみた」
「ペルソナ。。。」
「外面的人格。僕は、男性であり、大学生であり、家の長男であり、たとえば、キミにとって。。。え~と、ボーイフレンドであり、って、ゴメン、単なる例だけど。。。」
「そうじゃないの?もう私のボーイフレンドでしょ?」
「うん、わかった、サンキュー。で、まあ、もろもろ、僕は、社会から『男性、男、男の子』という役割をもたされ、期待されて、それからはずれないことを求められる、そういうことだよね?だから、形容詞としての、『女々しい』とか『女の腐ったようなヤツ』などという言葉が侮辱の言葉になる。これらはみんなペルソナ、仮面なんだ。ここまであってる?」
「じゅうぶんよ」
「で、女性、女、女の子についても同じことがいえる。女の子は女の子らしくとか、男性に従えとか。これも小さい頃から、女の子がこう吹き込まれて、ペルソナ、社会的な仮面が形成される。しかし、じゃあ、内面はどうなんだろうか?絵美はヘッセのデミアンを読んだ?」
「読んだわよ」
「僕は、デミアンを高校の頃読んだんだけど、あれがユングの影響を受けて書いたとは知らなかった。僕がクリスチャンの中高だっていったよね?」
「聞いたわ」
「それで、デミアンを読んで、グノーシスとか、ナグ・ハマディ文書とかを調べてね。そういうの、知ってる?」「知ってるわ」「学校にそういう図書がいっぱいあったからね。で、外面的なペルソナと自分の内面ってなんだろうか?ということを考え始めたんだ。それから、男と女のことも。だから、僕は、女の子は女の子らしく、とはまったく思わないし、肉体的・物理的な面を除いたら、男が女を守らなければいけないとか、男性が主導権を持つ、それを女性に発揮すべきだ、なんてことも思わないよ」
「へぇ~、フランク、話せるじゃない、キミ。絵美、キミのことが好きだよ」

 突然、会った当日に、「私、キミのことが好きだよ」なんていう女の子を僕は知らない。ちょっとドギマギしてしまったが、僕も「僕もキミのことが相当好きだよ、絵美」といった。ちょっと自然に出たセリフじゃなく、とってつけたような話し方になってしまったが。彼女は、自然だった。

「でも、絵美?」
「なに?」
「そうはいっても、僕の中学高校で躾られたことがあるんだよ」
「うんうん」
「女の子には、食事でも何でも、ぜったいに支払いをさせてはいけない、ってこと」
「まあ!」
「だから、ここは僕のおごり。これから。。。もしも、つき合ってくれるなら、すべての支払いは僕。これが僕のデートの条件、よろしい?」
「私の信念とはちょっと違うけど、でも、いいわ。だって、叔父にも父にも払ってもらっているんだし」
「それと、絵美、ひとつ聞きたいんだけど。。。キミ、ボーイフレンドいるの?」
「それって、友人で、性別が男性、という存在?」
「う~ん、ステディーな男性の存在、ってことだけど」
「ステディーかあ、いるようでいて、いないようでいて。。。でも、今晩でフランクが優先順位のトップに昇格した、という答えじゃダメ?」
「ありがとう、僕も同じだ。キミがいまや優先順位のトップだ」
「ステディー?」と絵美は眼をクルクル回しながらいう。
「アハハ、会った初日からステディーというのもおかしいし、第一、ステディーになったら、優先順位トップだ、なんていわないよ。The Only, The One, Only Youになっちゃうじゃないか? 」
「でも、ステディーになりそう?」
「僕は、もうステディーだと思いたい。キミがなんといおうと。ただ、僕の女性の友人をすべて抹殺、なんて、宇宙家族ロビンソンのロボットじゃあるまいし、それは勘弁して欲しいし、キミの男性の友人を抹殺してくれ、なんてことを金輪際いいたくない」
「私も同じことを考えていたの。私たち、同じ母親をもった兄妹みたいな感じがする」
「ちょ、ちょっと、それはマズイ。兄妹だと、キミにキスもできないよ」
「あら、概念として、ということで、キスでも何でもしていいのよ」
「う~、ま、まあ、それは将来の課題にとっておきたい」
「初日だもんね」
「そう、初日も何も、まだ数時間しか経過してない。。。おっと、もう7時半過ぎだよ。絵美、帰らないと。。。」
「あら、ホントだ。母に早く帰る、っていったんだ」
「帰ろう」といって、バーテンさんに「チェックお願いします」と頼んだ。
デートの条件よね?ごちそうさま」
「おやすいご用で」

 僕ら電話番号と住所を交換して、ホテルを出た。御茶ノ水駅まで行く途中で、絵美が、

「ねえねえ、明日もひま?」とうれしそうにいう。「ひまだよ」と僕。
「上野行かない?近代美術館と、国立博物館と科学博物館に行きたい!」
「いいよ、僕も最近行っていないから」
「じゃあ、明日、お昼過ぎでどう?」
「りょうかい、出る前に電話かけるよ」
「つき合ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ」

 僕らは、御茶ノ水駅で1、2番線と3、4番線で別れた。彼女の電車が来るまで、僕は彼女をずっと見ていた。彼女も僕をずっと見ていた。いろいろな人がホームにあふれていて、面白そうな人を見かけると、指さして彼女は笑う。僕も笑う。

 絵美の期待した時でも、場所でもなかったけど、その日から、僕は絵美とつき合うようになった。

 2月も3月も、1週間に2日か3日、僕らは会っていた。デート、という表現はそぐわないような気がするんだけど。

 僕は恋をしたのだ。たぶん。

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